【読書マラソン 202日目】第三の書 スートラ35/(相反する対をなすものに関する)経験は、魂が個我とプルシャ(霊)を識別できないことから起こる『魂の光』

シェアする

『魂の光』第三の書 スートラ35(p.317-)

(相反する対をなすものに関する)経験は、魂が個我とプルシャ(霊)を識別できないことから起こる。客観的な形態は霊的人間が使用(経験)するために存在している。このことを瞑想することによって、霊的性質に関する直観知覚が起こる。

知性〔サットヴァ〕とプルシャ(あるいはアートマン・真我)とはまったく別のものであり、知性がプルシャのために存在するのに対して、プルシャはそれ自身のために存在する。これを峻別しないことがあらゆる経験をもたらす原因であって、この区別にサンヤマを行うことによって、プルシャの知が現われる。『インテグラル・ヨーガ』

ここでも原典を大胆に意訳しているが、この訳は正しい解釈を伝えている。

これまでのスートラでは、(識別と平静の実践を通して辿る)相反する対をなすものの間にある狭い道が平衡の道、バランスの道、高貴なる中庸の道であることを見てきた。

このスートラは、この段階での魂の経験に対する注釈のようなものであり、次のような教訓を指摘している。

(以下抜粋)

第一に、相反する対をなすものに直面したとき、私たちは自らの内に苦痛や快楽を引き起こすマインドの活動つまり姿勢を選択することが多いが、それは、私たちが低位と高位の性質、(肉体、情緒、知性を通して機能する)個我と各人の内に見られる神聖な霊を識別できないためである。

第二に、形態の目的は単に、自己が──そうでなければ閉ざされている──世界と接触し、父の王国のすべての部分での完全な認識を発達させ、完全に意識する神の子を実演できるようにすることである。形態を通して経験を得て、意識は目覚め、能力は発達し、力が開花するのである

第三に、この事実を知的に把握し、それについて内的に瞑想することで、霊的性質との一体性の認識、形態とは違うという感覚が発達する。人は自分自身が実際には形態ではなく内在者、物質的自己ではなく霊的自己、分化した様相ではなく唯一なる者であることを知る。

p.317

出たー。「相反する対をなすもの」。

アリス・ベイリーでよく出てくる重要キーワード。

『魂の光』第二の書 スートラ48(p.221-222) これを達成したとき、もはや相反する対をなすものは限定にはならなくなる。...

「人はなぜ生まれてくるのか」という問いがあるが、自分(魂)が形態(からだ)を通して様々な経験を積むために、この生涯があるというのが一つの答えになるのだろうか。

まあ、もっといろいろ複雑なんだろうけど。




赤坂サガスのfacebookページ

いつもシェア&いいね!有難うございます。

シェアする

トップへ戻る