『魂の光』第二の書 スートラ8(p.146-147)
憎しみとは感覚の対象に対する反感である。
嫌悪(ドゥヴェーシャ)とは、苦痛体験との同一視から来るものである。
これは前のスートラの裏返しである。真のヨギは反感も欲求も感じない。彼の場合、このような相反する対をなすもののバランスがとれている。
憎しみが分離を生むのに対して、愛はすべての形態の根底にある統一性を明らかにする。憎しみは形態に集中した結果であり、すべての形態が(多かれ少なかれ)明らかにしているものを忘れることによって起こるものである。
p.146
憎しみは分離、愛は統一。
『インテグラル・ヨーガ』からも引用。
快楽への執着すなわち“ラーガ”も、苦を運んでくる障害である。われわれは、幸福は真の〈自己〉として常にわれわれの中にあることを忘れ、快楽から幸福を得ようとして、それ(快楽)に執着する。
外界のものから喜びを得ようとするとき、われわれは執着した状態となる。そして、もしそれらのものがわれわれを不幸にすることがわかると、それらに対する嫌悪(ドゥヴェーシャ)を創り出す。
したがってラーガとドュヴェーシャ、つまり“好き”と“嫌い”は、霊的な道の障害物である。
好きと嫌いは、霊的な道の障害物。
外に幸福を求めると、そこから執着が生まれる。
幸福はいつも自分の内側にある。