『魂の光』第一の書 スートラ19(p.54-)
ここで描写したサマーディは現象界の境界を超えるものではなく、神々や具体的世界に関わる人々を超えるものではない。
単に物質的身体を去って天界の神格たる状態に至った者、あるいは自然(プラクリティ)に没入した者には、再生がある。
スートラ17と18で述べられていた過程で得られる結果は、魂の領域の縁へと、熱誠家が認識するようになった新たな知識領域へと彼を連れていくにすぎないということに、ここで注目すべきである。彼はまだ三界に閉じ込められている。彼が成し遂げた成果は、メンタル体の変異を鎮め、人間が(物質界において、その肉体脳の中で)三界を超えたもの──つまり、魂、魂のヴィジョンの範囲、魂の知識──を初めて認識したということだけである。
p.54
うーーーーーん、難しーーー。
同じスートラなのに、『魂の光』(ジュワルクール大師の解釈)と『インテグラル・ヨーガ』(スワミ・サッチダーナンダの解釈)では今回は全然ちがって見える。
要は「サマーディに達したと言ってもお前まだまだこれからだからな!」的なことが書かれていると思うんだけど、正直なところ今回は読んでてもまったく入ってこなかった。
めげずにまた明日。