『魂の光』第二の書 スートラ20(p.169-173)
見る者は純粋な知識(グノーシス)である。純粋ではあるが、提示されたアイディアをマインドという媒体を通して見る。
見る者とは見る力そのものであり、それ自体は純粋だが、心を通じて見るという現われ方をする。『インテグラル・ヨーガ』
ジョンストンによるこのスートラの卓越した翻訳についてはすでに言及した。それは以下のようなものである。
「見る者は純粋な視覚である。純粋ではあるが、彼はマインドの覆いを通して見る」。
ガンガナータ・ジャは次の言葉でさらに光を当てている。
「観る者は絶対的な知覚力である。純粋ではあるが、いまだに知的なアイディアを見る」。
そこで伝えられている考えは、感覚を通してであれ、低位マインドを通してであれ、真の人間、観る者、知覚者、思考者はすべての知覚の総和であるということである。
彼自身が知識、明瞭なヴィジョン、真の知覚なのである。
p.170
このスートラはこの書の鍵になる詩句の一つであり、ヨガの科学全体の手がかりを与えるものである。この科学の全背景を網羅するその記述には、いくつかの考えが隠されている。そのため、この記述に大いに注目してほしい。
これにはマントラム的な効果があり、熱誠家がこれを断言として唱え、絶えず使用するならば、「人はその人が考える通りのものになる」という言葉の真実性がやがて明らかになるであろう。
p.170
「“私”は純粋な知識である。純粋ではあるが、“私”は提示されたアイディアをマインドという媒体を通して見る。」
【見る者】…この結果の世界(イリュージョンという大いなるマーヤ)を眺め考察する者。
【提示されたアイディア】…みる者の前を通過するすべての形態、何らかの種類の具体化された想念。
さて、49日ぶりのジムに行こう。