『魂の光』第一の書 スートラ46(p.114-115)
これらはすべて、種子のある瞑想である。
以上がサビージャ・サマーディ【種子のある三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺へと引き戻す可能性が残っている。『インテグラル・ヨーガ』
人間のマインドは本来、霊に関するものを理解できるようにはできていない。「種子のある」瞑想の一つの段階から次の段階へと進むにつれて、すべての知識が得られる台座に近づき、やがて自らが瞑想しているものに接触するようになる。
そして、純粋な霊としての思考者自身の性質を理解し、方法、段階、対象、種子、器官、形態(精妙なものや粗雑なもの)はすべて視界から消え去り、ただ霊だけを知る。次に、感情とマインドの両方を超越し、神自身だけを知る。低位の波動はもはや感じられず、もはや色を見ることはなくなり、光だけを知る。
p.114
「これらはすべて、種子のある瞑想である。」
『魂の光』では、とても短いスートラ。
一方、『インテグラル・ヨーガ』ではこう。
以上がサビージャ・サマーディ【種子のある三昧】であり、そこにはまだ修行者を束縛や心的動揺へと引き戻す可能性が残っている。
瞑想に進む前に、心を浄化しなければいけない理由が解説されています。
これらすべてのサマーディにおいても、まだ最終目標は遂げられていない。そうした状態を得はしても、そこにはまだ過去の印象(サンスカーラ)が残っているので、あなたは通常の人間状態に戻り得る。心が完全には浄化されておらず、すべての欲望が焼きつくされないまま種子の形で残っているのだ。
『(新版)インテグラル・ヨーガ』P.128
うーん、やっぱりこっちのほうが分かりやすい。