『魂の光』第三の書 スートラ3(p.247-250)
チッタが、リアリティーであるもの(つまり、形態に具体化されたアイディア)に吸収され、分離性や個我を意識しなくなったとき、それは観照つまりサマーディと呼ばれる。
三昧(サマーディ)とは、〔瞑想という〕形がなくなったかのように〔瞑想の〕対象のみが輝き出るときの瞑想〔ディアーナ〕をいう。『インテグラル・ヨーガ』
このスートラを理解する最も簡単な方法は、あらゆる形態つまり対象が何らかの種類の生命の顕現したものであると認識することである。
瞑想過程の初期段階において、形態の性質、そしてそれと自分との関係に気づくようになる。
自分自身を意識し、瞑想の対象を意識しているという二つの状態は完全にメンタル的な状態であり、それらは自分自身のマインドの中に存在する。
この状態に引き続いて起こるのは、認識が内に向かい、主観的な界層へと進み、形態を通して表現される生命の性質に気づくようになることである。
特質と主観的な関係が注目を奪い、形態様相は忘れ去られるが、分離つまり二重性の感覚はまだ残っている。自分自身と非自己であるものをまだ意識しているのである。
しかしながら、特質の類似性と類似した波動への反応は自分のものになっている。
p.248
ダラーナ(集中)とディヤーナ(瞑想)という二つの段階においては、マインドが重要な要素であり、脳における生産者である。
生きとし生けるすべてのものの魂を意識する。
カタチではなく、それに覆われている魂を。
そしてすべての魂とつながっていること、ひとつであることを思い出す。
瞑想を通して、自分自身が光であることを知る。