「自分が恐れていることは現実化するのか?」アリス・ベイリーの答え【未完の自叙伝】

シェアする

アリス・ベイリー

明けましておめでとうございます。

1年が「死」を迎える度に、僕は自分にとって本当に大切なことは何かを考えます。

世の中の常識や正しさの基準は横に置いておいて、この生涯に自分自身がどう生きるのが正解であり、与えられた生命を最大限に活かすことができるか。

誰もが「命がけ」です。読書をしているときも、仕事をしているときも、お酒を飲んでいるときも、スマホゲームに興じているときも、何をするのも「命がけ」なのは変わりなく、生命エネルギーを何かに注ぎながら生きているわけです。

どうせかける命なら、一度きりの人生、悔いのない時間の使い方をしたいものです。ちゃんと生きて、ちゃんと死んでいきたい。

怒りや恐怖に、エネルギーを浪費している場合ではない。しかしこの心と身体をまとって生きている以上、影のように負の感情がつきまとうこともあります。

年が明けて、新年の喜びと同時に、不安を煽るニュースや情報の洪水のなか、「恐れ」を感じている人も多いのではないでしょうか。

僕も例外ではなく、先日忘年会で再会した友人と「薄毛」「ハゲ」「毛量」の話題になり、いたずらに将来の不安を煽られた一人であります。(いまのところまだ大丈夫)

さて、スピ界隈では、恐れは恐れを引き寄せるから怖がっちゃダメよ的な、恐怖心に蓋をして、引き寄せの法則そのものに内心ビビりながら必死で作り笑顔で暮らしているような話もあると思います。

「恐れが恐れを引き寄せるなんて怖すぎる!」

「恐れが恐れを引き寄せるなんて怖すぎるって考えるとまた恐ろしいことが起きるかもなんて怖すぎる!!」

「恐れが恐れを引き寄せるなんて怖すぎるって考えるとまた恐ろしいことが起きるかもなんて怖すぎと考えて怖がると恐ろしいことが起こるなんて怖すぎィ!!!」

「恐れが恐れを……」という無限ループ。これは大げさですが、似たようなことはあるのではないでしょうか。

秘教的に、「恐れ」「恐怖」についてどう対処すべきなのか。

『秘教治療』上巻には、鬱の原因として、「恐怖心」がリストに挙げられています。

精神異常や死に対する恐怖心に基づくもの──決して具現化せず、固定観念になっている根拠のない恐怖心。その結果、その人はしっかりと作り上げられた想念形態の犠牲になる。

『秘教治療(上)』p.398「鬱の問題に関して」

根拠のない恐怖心であっても、堅固につくりあげられた想念形態によっては、その犠牲になるということでしょうか。

アリス・ベイリー自身の著書、『未完の自叙伝』には、アリス自身の恐怖心との向き合い方の記述があります。

恐怖心に浸っていると、恐れていることが現実に起きると教える思想学派がありますが、私は個人的にはそのようなことは一つも信じていません。私はいまだに起こっていないあらゆることを怖がりながら一生を過ごしてきたからです。

私はどちらかというと思い込みの強い人間なので、そんなことがあり得るなら、何かが起こっていたはずです。恐怖心とどのように闘えばよいかと聞かれることがあります。

私は自分でやってみてうまくいったことしかお話しませんが、私は決して恐怖心と闘おうとはしません。必要ならば恐怖心と共生し、ただ恐怖心を無視すると言う前向きの姿勢でいます。私は恐怖心とは闘わず、自分自身と問答せず、ただ恐怖心をありのままに認めて、やり過ごします。

皆はありのままをさらにもっと辛抱強く受け入れて、個人的な問題と格闘することにあまり多くの時間を費やさないようにしなければならないと思います。

全体的な有益性という観点から見れば、他の人たちの問題に取り組むほうがより有益なのです。奉仕に集中することで自分を忘れることができますし、実際にそのようになるのです。

『未完の自叙伝』p.185

  • 恐怖心そのものが、現実を引き寄せることはないだろう。
  • 恐怖心と闘おうとはしない。
  • 恐怖心と共生し、または無視する。
  • 恐怖心をありのままに認める。
  • 個人的な問題と格闘することに時間を割かない。
  • 自分自身より、他者の問題に取り組み、奉仕に集中する方が有益である。

ありのまま、あるがまま。

火に油を注ぐように、恐怖にエネルギーを注いで、大きく炎上させないこと。恐れをなくそうなくそうとせず、放っておく。

エネルギーを自分の恐怖と向けるより、他者への奉仕に使う。

アリス・ベイリーの言葉は、これからの1年に、ぴったりのメッセージとなるのではないでしょうか。

てなわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

m(_肉_)m

トップへ戻る