アリス・ベイリーの生涯(その3)

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前回「アリス・ベイリーの生涯(その2)」のあらすじ。

最初(その1)から読む

三人の娘を育てるため、来る日も来る日も缶詰工場で働くアリス。そんな中、縁があって神智学ロッジでも仕事をするようになった彼女は、神智学への学びを深め、霊的生活へと導かれていく。

司祭のおかげで元夫から生活費を受け取れるようになったアリスは、缶詰工場を辞め、神智学協会本部があるハリウッドへと引っ越す。そこの聖堂に飾られている絵には、あの「ターバンの男性」、クートフーミ大師の姿があった。

夫エバンスとも離婚し、精神的な成長を果たしたアリスはフォスター・ベイリーと出会い、精力的に神智学の仕事をこなしていく。そんなある日、ジュワル・クール(DK)大師が現れ、「仕事」を依頼されるのであるが…。

アリス・ベイリーの生涯(その3)

アリスは、ジュワル・クール大師のために約二ヶ月間、書き取りを続けた。しかし彼女は恐怖感に襲われ、「私、もうできないよぉ!」と、これ以上仕事を続けることを断固拒否した。

それはもし、このまま仕事を続けて自分の頭がおかしくなり発狂でもしたら、三人の子供たちを育てることができなくなると考えたからであった。

ジュワル・クール大師は、「そんなに心配なら、君の師匠であるクートフーミ大師にきいてみたらええがな。」と提案。アリスは、ジュワル・クール大師から教わった方法で、クートフーミ大師との接見を試みる。

アリス:「し、師匠ッ。あのぅ…!ジュワル・クール大師との共同作業、この仕事をこのまま続けていて、本当に私、大丈夫なんでしょうか?

クートフーミ大師:「……だぁ…。

アリス:「えっ?

クートフーミ大師:「……ぶだぁ…。

アリス:「あんだって!?

クートフーミ大師:「だいじょうぶだぁ!!」

クートフーミ大師は、肉体的にも精神的にもまったく危険はなく、非常に価値の高い立派な仕事をしていることを保証した。

さらに、ジュワル・クール大師の仕事をアリスに手助けさせるように提案したのは、まさかのクートフーミ自身であると告白したのであった。

執筆

アリス&DK

師匠にお墨付きをもらったアリスは、ジュワル・クール大師のために本を書きまくった。

最初は一語一句をはっきりと声を聴く形で伝えられたが、やがて意識を集中しさえすればジュワル・クール大師の想念がアリスのマインドに伝わり、感知した情報をスラスラ書き取ることができるようになっていた。

時に表現方法や言葉遣いをめぐって二人は議論したが、ジュワル・クール大師の述べたことに手を加えるようなことは決してしなかった。

アリスはこうも語っている。

「私はあくまで、ジュワル・クール大師から得た情報を伝えたに過ぎません。彼の本の内容を私がすべて理解しているだろうという憶測は間違いです。私は訓練を受けた弟子ですので、一般の読者より多くのことを知っているかもしれません。しかし、私にはジュワール・クール大師のような知識はありません。」

1920

神智学協会は、内部で分裂が進んでいた。秘教部門での権威を重んじる人々と、民主的傾向の強い人々との方向性の違い、ほかにも様々な理由によるものだった。

多くの者が、神智学協会を去ることになる。その中には、アリスとフォスターも含まれていた。

そして1920年、アリスとフォスターが結婚。「アリス・ベイリー」となった。

翌年からアリスは一般の人々とも接し始める。それは、彼女にとって困難な人生の始まりでもあった。

シークレット・ドクトリン

アリスは『シークレット・ドクトリン』のクラスを開いた。1921年にスタートした予約制のこのクラスは多くの人々に支持され、秘教グループや神智学に関わるたくさんのメンバーが定期的に出席。

小さな瞑想のグループもつくられ、その間も相変わらずジュワル・クール大師の口述を筆記し続けた。すでにいくつかの著書が、公に出版されていた。

本が多くの人に読まれた影響によって、『シークレット・ドクトリン』のクラスへの要求も強まってきていた。アリスとフォスターは、そのような多くの声に応えるために、1923年4月にアーケイン・スクールを開校する。

ひろがる

それから6〜7年間は、スクールの発展や、会報誌の記事の執筆に追われる日々を過ごす。1930年は、ヨーロッパやイギリスでの仕事。さらに娘たちの婚約、結婚と目まぐるしい毎日が続く。

アリスの著書は世界中で読まれるようになっていた。彼女たちが何をして、何を支持しているのかが、本を通して、または瞑想などに関する手紙を書いてきた人々を通して、世界中に知られるようになっていた。

アリスたちは世界中を旅して歩いた。ヨーロッパのあらゆる国々で、多くのタイプの秘教と出会い、スピリチュアル的な風潮が広がっていくのを世界中で目の当たりにする。

それはあたかも、新しいスピリチュアリティへの扉が開かれたようであった。しかしそれに対抗するように、悪の勢力もその力を増す。世界大戦によって全盛を極めたが、霊的風潮の高揚は戦争によっても途絶えることはなかった。

1933年から1939年まで、彼女たちは「善意」というアイデアを広めていく仲間を見つけることに、エネルギーを注いだ。19カ国での奉仕団体の組織、そしてジュワル・クール大師のヴィジョンに賛同した人々と出会うために。

アリス・ベイリー 最後の二年間

アリスは生涯最後の二年間、鉄の意志をもって苦難に立ち向かった。彼女は疲労も苦痛も意に介さず、毎日肉体の限界まで仕事をした。

休養よりも活発に働き続けることを選択し、さらに忙しく働いた。アリスはこれを貫き通す。

そして1949年の冬、アリスはニューヨークの病院で息を引き取った。

ベッドで死を迎えるまでの入院生活の中でさえ、彼女は訪問者を迎え入れ、スクールの幹部たちと相談をし、また手紙も書いた。

アリスの死の瞬間が訪れた時、師であるクートフーミ大師が彼女を迎えにきた。

翌朝、夫フォスター・ベイリーは世界中の何千人という彼女の生徒たちと友人たちに、手紙を送った。

妻アリスは、1949年12月15日木曜日の午後、平安と幸福に包まれて解放されました。

最後の午後、彼女はこう言いました。

「私はとても感謝しています。私は満ち足りた豊かな人生を送ることができました。世界中のとても多くの人たちが、私に親切にしてくれたからです。」

長い間、彼女はこの世を去ることを望んでいました。しかし、仕事を完了させようという強い意志をもって最後まで生き続けました。

彼女のライフワークの大部分は常に主観的なものでした。私たちは外見上の結果を見て、彼女を助け、彼女を愛し、時に批判し、また不平を言ったりもしました。

しかし私たちが彼女と共にあり、彼女がいたからこそ、わずかでも高く、より良い方向に進むことができたのです。私たちはすべてとても人間的で、彼女もまたとても人間的でした。

彼女は師であるクートフーミ大師と共に、キリストのため、もっと大胆な仕事をするために、彼のもとに帰って行きました。

参考・引用

  • 土方三羊著『アリス・ベイリー入門 エソテリシズムとは何か』(2006) アルテ
  • アリス・ベイリー著『未完の自叙伝』AABライブラリー




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