取り急ぎ、講座の報告と7つの習慣とチベット人など。

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第7回目の「エソテリック・ヒーリング連続講座」でした。

木曜クラスにおじゃまするのは今回で(多分)最後。人数も多く賑やかで楽しいクラスでした〜。みなさま、有難うございます。

いつもの報告(アリスベイリーによろしく付き)は北海道に帰ってから書くとして、とりあえず思いつくままにメモっておきます。

関係ないが、PC持ってきたけどホテルの無料WiFiのセキュリティがちょっと心配で、大丈夫なんだろうけど念のためテザリング。

さて、今日は秘教本の頭にある「チベット人の言葉からの抜粋」を音読しました。秘教治療下巻の最後に「チベット人」の正体が明かされていて、この辺の演出というか、構成というのか、とてもドラマチックに感じます。なぜか『進撃の巨人』を思い出してみたり。

それから、7回目だけに、秘教的にもおすすめの『7つの習慣』の話題も。僕も好きな本のひとつで、紙の本と電子で両方持っていてたまに開いてます。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復(amazon)

神尾先生のブログで、『7つの習慣』について書かれている記事を見つけたので、ぜひ読んでみてください。2017年の記事です。

『7つの習慣』(ウィキペディアより)と秘教的な考え方との関係を考える資料 

他にも『思考は現実化する』のナポレオン・ヒルの話や、『非常識な〇〇〇〇』も……。

そういえば、子供の頃は漫画くらいしか読まなかった僕が最初にハマった本が、父の本棚にあった『マーフィーの法則』。確か小五くらいのときです。

「潜在意識」という言葉はこの本で初めて知り、何度も読み返しました。

ああ、繰り返した思考って現実化すんだな〜。

人を恨んだり、嫉妬したり、呪ったりしてはいけないんだな〜。

その程度の理解でしたが、まだ汚れていない少年の心には強烈なインパクトがあったのを覚えています。

だらだら書きましたが、最後に「チベット人の言葉からの抜粋」で締めましょう。タイピングLOVE。寝ます。

チベット人の言葉からの抜粋 1934年8月

私はある段階の弟子である、というだけで十分であろう。これはあなた方にわずかなことしか語らない。なぜなら、最も卑しい熱誠家からキリスト自身に至るまで、さらにキリスト以上の方々に至るまで、すべての人が弟子だからである。私は他の人々と同じような肉体をまとってチベットの辺境に住んでいる。そして、私の責務が許すときには、(現世的な意味で)時にはチベットのラマ僧の大きな一団を統轄している。私がこのラマ寺院の院長であると伝えられているのはこの事実によるものである。ハイラーキーの仕事において私と提携している人々は(すべての真の弟子がこの仕事に携わっているのであるが)私の別の名前と役職を知っている。アリス・ベイリーは私が誰であるかを知っており、私の名前を二つ知っている。

私は一般の学ぶ人々よりも少しだけ長く道を歩み、そのためより大きな責任を背負う、あなた方の兄弟である。私はこの本を読む熱誠家よりも苦闘探求し、光へとより前進してきた者である。そのため私は、どのような犠牲を払おうととも、光の伝達者として働かなければならない。教師の間では年齢が重んじられているようであるが、私は老人ではない。しかし、私は若い未熟な者でもない。私の仕事は、反応があるところならばどこへでも、不朽の知恵についての知識を教え、そして広めることである。私はこの仕事に長年にわたって携わってきた。また私は、機会が与えられればいつでも、モリア大師とクートフーミ大師を手助けするよう努めている。なぜなら、私は長きにわたって彼らと彼らの仕事に関わってきたからである。以上で私は多くのことをあなた方に語ってしまった。しかし、情緒的な熱誠家がまだ接触できないグルや大師に捧げる盲目的な服従や愚かな献身を私に捧げさせるようなことは何も言っていない。情緒的な献身を人類への──大師へのではなく──非利己的な奉仕へと変性するまでは、望んだとしても接触は果たされないであろう。

私が書いた本は、受け入れるよう要求することなく世に出される。それらは正しく真実で有益なものかもしれないし、そうではないかもしれない。それらが真実であるかどうかを適切な実践と直観の修練によって確信するのはあなた方の役目である。それらがインスピレーションを受けて書かれたものとして迎えれ入れられることや、大師方の一人の作品であると(息を殺して)語られることには私もアリス・ベイリーも全く関心がない。もしそれらが真理を、世界にすでに提供されているものに続くような形で表しているならば、そしてまた、もし与えられた情報が熱誠や奉仕したいという意志を情緒の界層からマインドの界層(大師方を見出すことができるとすれば、この界層である)へと高めるならば、目的を果たしたことになる。そして、伝えた教えが世界で働く人々の啓発されたマインドから反応を呼び起こし、直観の閃きを招くならば、その教えは受け入れてもよいであろう。しかし、そうでなければ、受け入れるべきではない。語られていることが結果として確証に結びつくならば、もしくは、類似(相応)の法則のもとで照らし合わせて正しいと思われるならば、それは申し分のないことである。しかし、そうでないならば、言われたことを受け入れてはならない。

あ。ブッダとキリストの話のときに、神尾先生の口からさらっと『聖☆おにいさん』が出てきてウケました。読んでるのかな。




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